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(前編)日本酒の歴史、起源から明治時代までの変遷を解説!

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(前編)日本酒の歴史、起源から明治時代までの変遷を解説!

(サムネイル出典元:日本酒の造りと飲酒文化の歴史

お米と水を使って造られるお酒「日本酒」。

日本酒の起源はいったいどこから始まったのでしょうか?
そしてどのような歴史を辿って今にいたるのでしょうか?

この記事では、日本酒の起源と明治時代の日本酒のあり方に至るまでの歴の変遷を解説します。

1.日本酒の起源は「八塩折之酒」と「口噛みノ酒」の2説

米と水を使って造られる日本酒の起源は、諸説ありますが稲作が始まった弥生時代であると現在では考えられています。

現存している史料が残っていないため、決定的な証拠としての書紀などはないのですが、現存している史料から有力とされているのは「八塩折之酒」と「口噛みノ酒」の2説です。

1-1.八塩折之酒(やしおおりのさけ)

「八塩折之酒」はほとんど伝説のようなお話ですが、「日本書紀」に須佐之男命(すさのおのみこと)が首が8つある大蛇、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するために八塩折之酒(やしおおりのさけ)という8度にわたって醸す酒というものを造らせる記述があります。

実際の酒質等に関する記述などはなく、疑問点も未だに多いですが、日本酒の起源を考える上で非常に興味深い史料の1つとされています。

1-2.口噛みノ酒(くちかみのさけ)

米を原料としたお酒として断定できる記述が初めて見つかったのが「大隅国風土記」です。

現在の鹿児島県東部に位置する大隅国では、水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があり、これが「口噛みノ酒」とされています。

生米を噛むことで、唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法です。

酒などを造る意味の「醸造」の「醸」は、「醸(かも)す」と読みますが、これは口噛みノ酒の「噛」が語源ではないかという説もあります。

2.飛鳥時代から奈良時代にかけての酒造り

飛鳥時代後期に「飛鳥浄御原令」という法典が敷かれ、宮内省の造酒司(さけのつかさ / みきのつかさ)に酒部(さかべ)という部署が設けられました。ここから大宝律令によって、日本酒の醸造は体系化されていきます。

酒部は部署名でもありますが、今日の杜氏(とうじ)にあたる醸造技術者も指していました。

ちなみにこの頃から奈良時代にかけての朝廷によって作られているお酒は、まだ人々には広まっておらず、あくまで楽しめるのは特権階級に位置する人のみでした。

3.鎌倉時代から、安土桃山時代にかけての酒造り

3-1.鎌倉時代

鎌倉時代に入るまで、お酒というのは一部の特権階級の人だけが楽しめる嗜好品でした。

しかし、鎌倉時代に入ると流通も盛んになり貨幣経済が全国的に浸透してくることによって、お酒はお米と同等の価値を持つ商品として人々に流通することになります。

お酒の流通にともなって、現在でも日本酒では有名な京都の伏見を中心に自前の蔵で酒を造り、その販売を行う酒屋、いわゆる「造り酒屋(つくりざかや)」が主流となっていました。

日本酒が流通していく一方で、幕府では租税の確保や武家的な禁欲思想にもとづいて、たびたび酒の売買や製造を禁止とする政策がだされています。

中でも1252年に出した「沽酒の禁」は徹底しており、一軒につき一個のみを残して醸造・保管用の甕(かめ)を破壊させるという手法をとりました。

3-2.室町時代

室町時代にかけて造り酒屋の数はさらに増えていきます。

鎌倉幕府の沽酒の禁は、室町時代では廃止され、室町幕府は酒造業者たちに課税を求め、酒造業を幕府の財源とする方針に変わりました。

当時の酒屋には資本力があり、それまで酒屋とは別の職業であった麹造りにも進出し、従来の麹屋と対立した結果、1444年の麹騒動という武力衝突にまで発展し、その結果、京都における麹屋という専門職は滅亡し、以後、麹造りは酒屋業の一工程へと吸収合併された形となっています。

室町時代初期に書かれた『御酒之日記(ごしゅのにっき)』には、すでに今日の段仕込みや、乳酸菌発酵の技術、火入れによる加熱殺菌、木炭による濾過などについての記述があります。

基本的に、酒造りは京都を中心として造られていましたが、京都以外でも酒屋が現れ、京都の酒屋から「他所酒(よそざけ)」と呼ばれて警戒されていました。

実はこの他所酒こそが、のちの日本の酒文化の中核をなす地酒の出発点にもなっているのです。

3-3.安土桃山時代

日本酒の国外での最初の記述

安土桃山時代では、初めて日本酒についての記述が国外にでることになりました。

一番最初は、日本にキリスト教の布教をしたフランシスコ・ザビエルです。1552年、イエズス会の上司へ宛てた手紙の中で、「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し」と、日本酒に関してヨーロッパ人として最初の報告を書いています。

また織田信長に接して多くの記録を残した宣教師ルイス・フロイスも1581年に「我々は酒を冷やすが、日本では酒を温める」などの情報を本国に書き送っています。

ルイス・フロイスの記述から、この頃からすでにお酒を温めて飲む「熱燗」の文化があったのではと考えられています。

これらの日本酒の評価は、自国で飲まれていたお酒であるワインとの比較がされています。

古酒から新酒が主流に

このころ以前は、新酒よりも、古酒が圧倒的に高級とされ値段も高かったとされています。

しかし酒の大量生産が可能になると、酒を輸送するのに用いられるコンテナも、壺や甕ではなく樽が主流になりました。

古酒は密閉されてこそ酒質が保たれ、壺や甕はそのために工夫されて発達してきた醸造器でしたが、樽では密閉が効かず、そのため古酒が流通しにくくなった結果、新酒の需要が増えていき、新酒が飲まれるようになっていきました。

ちなみに、安土桃山時代に焼酎、南蛮酒、泡盛、ヨーロッパからワインなど、様々な酒文化が日本に入ってきています。

米 純米 日本酒

4.江戸時代

4-1.日本酒の輸出

江戸時代に日本酒は、朱印船貿易により東南アジア各地に作られた日本人町やその国の王族などへ輸出されていきます。

とくにオランダ東インド会社の拠点であったバタヴィア(現在のインドネシアの一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部とし必須なものとなりましたが、ヨーロッパ(おもにオランダ)から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数が若干高いがために、バタヴィアを始めとした東南アジアにおいては、日本酒は食前酒、ワインを食中酒として飲むという独自の食文化の伝統が生まれることになりました。

4-2.四季醸造

江戸時代初期には、四季醸造と名づけられる技術があり、新酒、間酒(あいしゅ)、寒前酒(かんまえざけ / かんまえさけ)、寒酒(かんしゅ)、春酒(はるざけ)と年に五回、四季を通じてお酒が造られていました。

酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合してしまいます。

1667年、それまでの寒酒の仕込み方を改良した寒造りが確立されると、1673年には米の不作を原因とする酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され、これにより四季醸造はしばらく途絶えることになります。

1754年に米の豊作によって、四季醸造は復活の機会を得ますが、もはや四季醸造の技術を有している杜氏がいなかったため、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅しました。

今でこそ、季節を問わず造られている日本酒ですが、四季醸造が復活できたのは昭和時代の工業技術によるものでした。

5.明治時代

5-1.酒米の開発

米の使用用途の比重として、酒造りが大きくなってきた地方では、食用でなく酒造りに向いている米、いわゆる酒米の探究が盛んに行なわれるようになっていきました。

1860年に醸造適性のある品種「伊勢錦」を皮切りに、1866年に備前雄町、1877年に神力(しんりき)、などが酒造好適米として品種特性が固定されていきます。

5-2.ビール、ワインとの競合

明治時代、日本酒にさまざまな課税が課されている一方、政府は世界のトップに立っていたヨーロッパに追いつくために、欧化政策の一環として国民に西洋の酒類をより多く消費させようとして、当初ビールやワインに対しては日本酒に対するような重い課税を行なわなかったため、日本に急速にビールが浸透していきました。

1901年、ビールも課税対象になりましたが、ワインはいまだに無税となっていました。

それ以後太平洋戦争末期にかけて、日本酒には造石税・物品税・庫出税などさまざまな課税がなされていく一方で、ワインは醸造免許にかかわる税のみで、商品に対する酒税は免除されています。

このことがビール・ワイン業界の基礎体力ともいうべきものを温存し、戦後の復興もスムーズになったと考えられています。

昭和時代後期から現在におけるビール・ワインの酒類消費シェアの拡大の裏には、明治初年の欧化政策が深く関係していたのです。

5-3.醸造業の近代化

明治時代は醸造業の安定的な生産が飛躍的に進歩しました。

近代以前は生酛によって良い酒ができても「同じものをまた造る」ということが不可能に近く、1890年代でも、仕込んだ醪のうち10%はできあがる前に腐ったり(腐造)、火落菌によってだめになったり(火落ち)、おかしくなったり(変調・変敗)、すっぱくなったり(酸敗)することが前提としてお酒は造られていました。

1895年に日清戦争に勝利した明治政府は日清戦争で獲得した賠償金などの余力を、醸造業の近代化に投資しました。

当時、国家の歳入のうち、酒税が占めている部分は非常に大きく33%と税収の中でもトップになっています。酒税による税収を安定させるためにも、醸造業の近代化は国家戦略の一部として取り組まれました。

1904年には大蔵省の管轄下に国立醸造試験所(現・酒類総合研究所)が設立され、1909年には同試験所で山廃酛が開発され、翌1910年には速醸酛が考案されており、現在の酒造りにも大きく貢献しています。

日本酒の審査として、いまではおなじみの「全国新酒鑑評会」も明治時代に第一回をスタートしています。

5-4.瓶詰め

当時、日本酒というのは基本的に地産地消であり、いまでいう地酒が流通することはありませんでした。

それゆえに、当時の日本酒の楽しみ方というのは祭礼などの場に地元の酒が四斗樽で運ばれて皆で自由に飲むか、比較的に裕福な階層が自前の徳利などを携えて酒屋へ行き、酒屋は店頭に並べた菰(こも)かぶりの酒樽から枡で量り売りをするのが通例となっていました。

明治後期から徐々に酒は瓶で売られるようになり、生産された町や村を離れて流通するようになっていきます。

この瓶詰めは食生活にも変化をもたらし、酒屋から瓶で買ってきた自分の好みの銘柄を晩酌として、食事や肴とともにたしなむという、現在の日本酒の消費形態の土台にもなっています。

まとめ

日本酒の起源から、明治時代の醸造技術の近代化までを見てきました。

いま、わたしたちが当たり前のように日本酒を楽しめている背景にはさまざまな歴史の変遷があります。

時代の流れに思いを馳せながら飲む日本酒もまた格別なのではないでしょうか。

昭和時代から現代までの変遷を解説している後編はこちらから!

(後編)日本酒の歴史、昭和から戦後を経て現代までの変遷を解説!