前回は日本酒の起源から明治時代までの変遷を紹介しました。
明治以降、戦争によって日本酒の状況というのはどんどん悪くなっていきます。
前編の続きとなる昭和から現代までの日本酒の変遷を見ていきましょう。
目次
1.昭和〜戦後まで
1-1.酒米の王「山田錦」の登場
1930年ごろ、広島県西条町(現在の東広島市)の佐竹利市(精米機メーカーのサタケの創業者)が米の形を保ったまま高度精米ができる竪型精米機を発明し、果実のような吟醸香を持つ酒、「吟醸酒」の製造が容易になり、吟醸造りが飛躍的に発展する機運が高まります。
このとき、現在「酒米の王者」として君臨することになる山田錦が、1936年に兵庫県奨励品種として登場します。
しかし、当初の山田錦はまだ普及、注目もされておらず、戦前の品評会・鑑評会の上位を占める酒には、雄町がもっとも使われていました。
1-2.戦争による様々な規制
1937年、日中戦争が始まると日本酒を取り巻く状況は悪化していきます。酒も原料の米も戦略物資とされ軍需用が最優先となり、品質の良い酒が市場に出回ることがなくなってしまいます。
さらに食用米を確保するため、1938年国家総動員審議会によって酒造米200万石が削減させられ生産は半減、1939年には米穀搗精制限令(通称「精米制限令」)が公布され、精米歩合が65%以上に規制されました。
縦型精米機の発明により飛躍的な発展の可能性がみえた吟醸酒でしたが、この精米歩合の規制によって普及には約30年ほど待つ形になるのです。
精米歩合の制限に加えて、政府のさだめる公定価格によってお酒の値段が統制されることになり、公的価格によって太平洋戦争末期から戦後の混乱期にかけて個々に存在する闇値で取引される、闇市場を作るきっかけとなってしまいました。
戦争を契機に日本酒の需要と供給は大きくバランスが崩れ、酒小売店では酒樽を店頭に出す前に中身に水を加えてかさ増しする店が続出し、金魚が泳げるくらい薄い酒ということで金魚酒と呼ばれた酒もこの時代には存在しています。
1-3.闇酒の横行
戦争によって当時の日本は食糧難、とりわけお米が絶望的に不足していました。
米不足による日本酒の供給が追いつかない一方で、暗い世相を反映して酒類への需要が高まったことで、メチル、カストリ、バクダンといった密造酒が大量に横行することになります。
どぶろくなどの従来の密造酒と比べてアルコール濃度が高く、非常に有害なのが特徴で闇市場で売買されることから闇酒と呼ばれていました。
この闇酒は健康には害であり、多数の犠牲者を出すことになります。
1-4.三倍増醸清酒の登場
闇酒の横行は治安の悪化や酒税による税収の低下など、政府も見過ごせない問題であったため、合法的でなおかつ米を原料としない酒が真剣に研究されていきます。
結果的に米を使わずにお酒を造ることは不可能だったため、政府が採用したのは「三倍増醸清酒」と呼ばれるお酒です。
三倍増醸清酒(三増酒)とは、米と米麹で作ったもろみに清酒と同濃度に水で希釈した醸造アルコールを入れ、これに糖類(ぶどう糖・水あめ)、酸味料(乳酸・こはく酸など)、グルタミン酸ソーダなどを添加して味を調えるお酒です。
醪(もろみ)に様々なものを加えた結果、約3倍増量することができるために三倍増醸清酒という名前がついています。
酒造用米不足を解消するために導入された三倍増醸酒は、米が余るようになった高度経済成長期にも廃止されず、結果として日本酒の消費低迷期を招く原因となります。
2.高度経済成長期
2-1.日本酒=三倍増醸清酒の時代に
高度経済成長期に入ると「もはや戦後ではない」と言われるようになり、「造れば造るだけ売れた」時代になりましたが、様々な問題によって日本酒は三倍増醸酒に淘汰されていく形になります。
問題は戦後にもかかわらず当時の日本はまだ酒造米が配給制であり、良質な日本酒を造ろうと思っても、酒造米の調達が困難なことでした。
さらに公定価格によって、配給制の少ない酒造米からどれだけいいお酒を作っても販売価格は一律おなじになってしまっていたのです。
これらの問題から「造れば造るほど売れる」「よい酒を造っても消費者に見向きもされず、しょせん販売価格は同じになる」という状況になり、生産者も「おいしいものを造る」という企業努力を怠り、三倍増醸清酒による量産主義が主流になります。
公定価格は1939年、酒造米の配給制は1968年まで続くことになりました。
2-2.国民の食生活の変化でさらに状況は悪化
経済的な余裕が生まれてきたことによって、ファッションなどに関心が向き始めた日本人に対し、「お米は太る。パンでスタイルを良くしましょう」という科学的根拠に乏しい宣伝がこのころ盛んに行われました。
その結果、国民の食生活はお米からパンにへの切り替えを中心に、和風から洋風の食生活に変化していきます。
当然、飲まれるお酒も日本酒から洋酒に変わっていきました。
缶ビールの台頭
1950年代後半、ついに缶ビールが発売されます。
缶ビールは自動販売機でも販売されたりと、手軽さが受け、缶ビールの台頭は1980年代日本酒がビールに急速にシェアを奪われるきっかけとなっています。
減反政策による、酒米の絶滅
1961年、主食がパンになったことでお米の総消費量は減少、深刻な米あまり減少を引き起こした結果、減反政策が実施されました。
この減反政策によって、雄町、穀良都、亀の尾など優秀な酒米もしだいに栽培されなくなり、多くの品種が一時絶滅しています。
日本酒の淡麗甘口化
様々なお酒の登場によって、国民の味覚も変化し、それまで飲まれていた日本酒の主流であった「濃醇辛口」から「淡麗甘口」に変遷していきます。
この時期の甘口な日本酒への反動として、1980年代から1990年代にかけて日本酒辛口ブームが到来することになります。
3.1970~80年代
3-1.飲料の低アルコール化
高度経済成長期を経て、かつての「とことん泥酔するまで飲む」というお酒の楽しみ方は変わり、より日常的な微酔が社会のニーズとして求められるようになっていきます。
その社会のニーズを反映して生まれたのが、水割りウイスキーやチューハイであり、ノンアルコールへの出現に至ることになります。
飲料の低アルコール化に伴い、三増酒も見ることはなくなくなっていきました。
1973年には米不足の時代もすでに終わり、増量を増やす目的でアルコールを添加する必要がなくなったため、アルコール添加の量を三増酒よりはるかに減らした本醸造酒が一般市場に登場します。
日本酒は、水で割るという文化がこのときはまだなかったため、低アルコール化の流れに乗り遅れ、さらに消費を低迷させていきます。
3-2.淡麗辛口ブームの到来
1960年代にかけて日本酒の濃醇辛口から淡麗甘口への変遷により、ひとたび三増酒主流からの脱却が始まると、それまでの甘口への反動として「淡麗辛口ブーム」が起こり、約20年ほど続きます。
ブームの火付けは新潟のお酒でおなじみの「越乃寒梅」が雑誌で紹介され、幻の酒として有名になったことで自信をつけた越後流の淡麗なお酒が、日本酒市場へ大規模な売り込みが行われたことがきっかけです。
それまで主流だった灘や伏見の大手メーカーによる酒が甘くくどくなっていたことに消費者が飽いていた反動として、この淡麗辛口な日本酒は人気を得ます。
新潟県はもともと全国有数の米どころであり、消費者から見ても米と酒のイメージが結び付きやすかったことから、新潟酒は商業的にも成功をおさめ、「酒は新潟に限る」といった今日のイメージがあります。
この傾向を見た他県の酒蔵も、次々と淡麗辛口へと路線を変更していき、やがて日本中で淡麗辛口の酒が造られるようになっていきます。
香りを引き出し味をスッキリさせるために行なわれていたアルコール添加も、製成酒を辛くするのが目的で行なう蔵も現れました。
4.1990年代
4-1.吟醸酒の普及
1970年代には醪(もろみ)造りの工程における温度管理の技術が飛躍的に発達し、また協会7号や協会9号などの吟醸造りに適した酵母が頒布されたことで、ようやく少量ずつ市場へも出荷され始め、吟醸酒は消費者に受け容れられていきます。1980年代には広く一般に流通するようになり、バブル景気ともあいまって吟醸酒ブームを生みました。
すでに1930年代前半に誕生しながらも、戦中戦後の困窮によって日の目を浴びることがなかった吟醸酒がついに普及し始めます。
また、この吟醸酒ブームに乗じて、さまざまな吟醸香を醸し出す酵母の開発が行われました。
5.2000年代
5-1.日本食ブームと吟醸酒の国際化
バブル期の揺り戻しであった平成不況から2006年には、淡麗辛口ブームも終焉し、伝統的な日本料理が再評価されるにつれて、昨今では濃醇系の日本酒もシェアを回復してきていますが、日本酒全体の消費は未だ長期低迷しています。
その間にも、日本酒の品質向上に向けての試行錯誤、技術改良がさまざまに重ねられてきた結果、古代に日本酒が醸されて以来、特に吟醸酒(吟醸系の酒)の品質は、史上最高水準に達していると言われています。
国内での日本酒の消費低迷に反して、世界市場において日本酒の高品質が評価され始め、日本酒の輸出量は年々倍増しています。
日本食ブームに伴って2000年代の吟醸酒ブームの中心は、日本ではなくアメリカ合衆国・フランスを中心とした世界に移ったと言われています。
イギリスでは2007年、日本料理人気の高まりを反映して、伝統あるワインコンテストである「International Wine Challenge」に、新たに「SAKE」部門が設置されました。
まとめ
昭和から2000年代に至るまで日本酒の歴史の変遷を紹介しました。
現在、日本酒は昔ながらの正統な味や質の継承と復活もさることながら、輸出の伸張と国内消費の回復をめざして、2017年時点、次のような方向で多様な模索が続けられています。
コロナウイルスによって、日本酒業界としては芳しくない状況が続いていますが、今日も蔵元の方々は「よりおいしいお酒」を目指し研鑽を積んでいます。